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紀州から蔵人の誇り高き”日本酒”を世界ブランドに

平和酒造株式会社

実行中

更新日:2019.11.24

平和酒造は昭和3年、山本保によって創業をされました。江戸時代からの酒蔵である谷口酒造の谷口保は、婿養子として代々仏寺であった山本家の家督を継ぐことになります。その際、生来の酒好きが高じ、酒蔵を創業します。当時の山号寺号が「無量山超願寺」であったので現在でも「超願寺」という屋号で呼ばれることもあります。

私達の仕事は、自然と食卓の境目にたち、四季の恵みを形にして世の中に送り出すこと。平和酒造は、酒造りに対する熱い想いを原動力とする、生きた企業です。

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アクション詳細

目指す社会のあり方、ビジョン

大量生産・大量消費という戦後のライフスタイルが崩れ、人間がもともと持っていたスローフード・スローライフという概念が見直され、世界各国でもLOHAS~ロハス~と呼ばれる概念が浸透しつつあります。また個人レベルでは、人が人として、自分はどうありたいかということを深く意識する時代となりました。鶴梅の梅酒シリーズ、日本酒「紀土」においては、販売店の皆様、素材を提供してくださる農家の方々、そして私たち平和酒造が、このロハスの考え方に賛同し、商品化いたしました。

たとえば酒米は、冬季には実際に酒造りにかかわる杜氏や蔵人が、地域の方々のご協力ご理解を得ながら、毎年初夏に苗付け田植えをし、稲刈りまでの管理を行っております。これはただの酔狂で始めたわけではなく、後継者不足に悩む地域の声と、稲作農家出身の若い蔵人の気持ちが出会い、実現したのです。

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人が人と出会うとき、生きてきた歴史や思想の背景まで汲んでもらいたいと思うものです。それと同じく、人が製品と出会うとき、製品に関わったすべての人々に思いを馳せていただきたいのです。できたら、麦わら帽子をかぶった、田舎の素朴な農家さんの姿にも。

酒は生き物、人は掛け橋。作りあげた製品に託すのは、酒も、すべての人も、求められて生きること。

平和酒造の歴史

平和酒造は、これまで幾度か廃業の危機にさらされてきました。第二次世界大戦中、激しくなる戦局に学童疎開や京都など酒蔵の受け入れを国から命じられ酒造の休業をしいられます。 

さらに戦後しばらくしても酒造免許の再開を許されませんでした。 そこで二代目である山本保正は「休業蔵再開」の陳情演説を行うため国会に足を運びました。震えながらも休業に追い込まれた無念さ、戦後の平和な時代で酒造りをするという希望を語り多くの拍手を浴びたそうです。そういう情熱の末にようやく再開の許可がおりたのです。この時の平和な時代に酒造りをするという想いが平和という名前を冠した酒蔵名をつけさせたのです。

しかし再開はしたものの苦労は続きます。肝心の蔵が貸していた酒蔵から返してもらえなかったのです。やむなく和歌浦の谷口酒造の持ち蔵を間借りし酒造りを再開します。この逆境の時期を支えたのが「和歌鶴」というブランドであり、「若の浦に 潮満ち来れば潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」という万葉集の詩からきています。

戦後10数年たった後にようやく溝ノ口の酒造りに戻り酒造りを開始します。残念なことに、一度休業した酒蔵を自力で立て直すのは難しく、昭和60年代まで 京都の大手メーカーの桶売り蔵として自社ブランドは細々と販売していました。しかし、自分達が造りたい物を造ろうという想いから自社での販売に力点を置き始めます。 以来、平成元年、5年、17年、20年の全国新酒鑑評会金賞を受賞し、和歌山らしい酒造りに力を注ぎ今日にいたります。

くわしくはこちらからご覧いただけます。

アクションリーダー プロフィール

山本 典正

和歌山の酒蔵を家業に持つ。東京のベンチャー企業を経て、実家の酒蔵に入る。日本酒業界にあっては他に類をみない革新的組織づくりをするとともに、新たに開発した日本酒「紀土」と梅酒「鶴梅」など自社ブランドを飛躍的に成長させる。日本酒をワインのように世界中でもっと愛されるお酒にするという夢に向かい、自社の蔵人達と尽力している。

団体/企業詳細

団体名
  • 平和酒造株式会社

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