紀州から蔵人の誇り高き”日本酒”を世界ブランドに
平和酒造株式会社
アクション詳細
目指す社会のあり方、ビジョン
平和酒造の歴史
平和酒造は、これまで幾度か廃業の危機にさらされてきました。第二次世界大戦中、激しくなる戦局に学童疎開や京都など酒蔵の受け入れを国から命じられ酒造の休業をしいられます。
さらに戦後しばらくしても酒造免許の再開を許されませんでした。 そこで二代目である山本保正は「休業蔵再開」の陳情演説を行うため国会に足を運びました。震えながらも休業に追い込まれた無念さ、戦後の平和な時代で酒造りをするという希望を語り多くの拍手を浴びたそうです。そういう情熱の末にようやく再開の許可がおりたのです。この時の平和な時代に酒造りをするという想いが平和という名前を冠した酒蔵名をつけさせたのです。
しかし再開はしたものの苦労は続きます。肝心の蔵が貸していた酒蔵から返してもらえなかったのです。やむなく和歌浦の谷口酒造の持ち蔵を間借りし酒造りを再開します。この逆境の時期を支えたのが「和歌鶴」というブランドであり、「若の浦に 潮満ち来れば潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」という万葉集の詩からきています。
戦後10数年たった後にようやく溝ノ口の酒造りに戻り酒造りを開始します。残念なことに、一度休業した酒蔵を自力で立て直すのは難しく、昭和60年代まで 京都の大手メーカーの桶売り蔵として自社ブランドは細々と販売していました。しかし、自分達が造りたい物を造ろうという想いから自社での販売に力点を置き始めます。 以来、平成元年、5年、17年、20年の全国新酒鑑評会金賞を受賞し、和歌山らしい酒造りに力を注ぎ今日にいたります。
くわしくはこちらからご覧いただけます。
アクションリーダー プロフィール
- 山本 典正
-
和歌山の酒蔵を家業に持つ。東京のベンチャー企業を経て、実家の酒蔵に入る。日本酒業界にあっては他に類をみない革新的組織づくりをするとともに、新たに開発した日本酒「紀土」と梅酒「鶴梅」など自社ブランドを飛躍的に成長させる。日本酒をワインのように世界中でもっと愛されるお酒にするという夢に向かい、自社の蔵人達と尽力している。
団体/企業詳細
- 団体名
-
- 平和酒造株式会社
コメントを残す